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格闘衝動

作:龍宇治

第二十三話『愚か者(後)』

 市ヶ谷純一という男について。
 元自衛隊員。
 小学生のころから柔道を始め、高校時代には県代表に選ばれる。卒業後は自衛隊に入隊。第××回全自衛隊徒手格闘選手権大会で支部代表として団体戦に参加。
 しかし隊内での折り合いが悪く、暴力沙汰を起こし除隊。
 上官を全治三か月。市ヶ谷本人は以前から執拗な嫌がらせを受けていたと主張したが証拠はなし。
 家は母子家庭。父親は市ヶ谷が小学生のとき借金で蒸発。妹がひとり。三人以外に身寄りはない。家族思いで、自衛隊に入隊してから仕送りはかかさなかった。除隊後も二年間仕送りは続いた。
 家族が除隊の事実を知ったのは、仕送りと本人からの連絡が途切れたひと月後。
 身長百九十六センチ。体重約九十キロ。純日本人。
 入れ替わるには、ぴったりの相手だった。
 市ヶ谷セルジオ純一。セルジオは通名。経験上、いかにも『ハーフらしい』名前のほうが無駄な詮索を避けられた。
 『彼』が戸籍を『変える』のはこれで三回目。
 最初は観光ビザで日本に渡り、定住するため金を払って戸籍を買った。日本人であるということは、『合法的に』金を借りたり携帯電話を契約できるということだ。それがヤクザの戸籍ビジネス。仕組みが分かれば後は簡単だった。わざわざ買う必要はない。自分で手ごろな相手を探して、奪い、偽装する頭があれば。
 市ヶ谷セルジオ純一という名前を使う『彼』は、そういう生き方をしてきた男だった。
 半分日本人だというのは本当だ。
 母親は日本からの留学生で、物心つくころにはいなかった。
 ブラジル人の父親は麻薬と酒に溺れたが、『彼』に柔術を授けた。それは神が人間に試練を与えることと同じだった。つまり言葉ではなく実践を以て、『彼』の人生にとっての壁として立ちはだかった。
「出来損ないの、くずめ」
 技を極められ、降参のタップをする度に繰り返される、その言葉。
 何千回、何万回繰り返されたかは分からない。最初は戯れ、次は躾、いつからか習慣に。本質はどれも子への虐待。
「出来損ないの、くずめ」
 殺してやろう。
 言われる度にそう思った。真夜中に目が覚めて、飲みかけのグラスを横にソファでいびきをかく無防備な父親を、何度ナイフで突き殺そうと思ったか。
 だが、それではダメだ。 
 柔術で殺さなくては。
 堆積した屈辱を返すには、相手の得意を踏みにじることが必要だった。一本ずつ四肢を破壊して最後は裸締め。腕の中に感じる、相手の首の筋肉が緊張から弛緩へと移行する数秒の達成感。それに思いを馳せることが、苦境を耐え忍ぶ唯一のモチベーションだった。
 好物は、最後まで、とっておかなくては。
 だから、『彼』は我慢した。我慢して学び続けた。飲み過ぎのビール腹が出た薬物中毒者が操る技の術利を、濁流のような暮らしの中で読み解き続けた。
 十四歳のときには、ギャングの仕切る賭け試合のファイターになった。
 無敗。闘争へのマインドが違う。技の純度も。だが家では肥満気味の中年から一度もタップを奪えなかった。
 『最強』だ。
 この男は『最強』なのだ。
 最強を覆し、殺すことが、己の人生の意味なのだ。

 そう思い込むことで、屈辱で潰れそうな心を守った。

 父親が路上で射殺されたのは『彼』が十六歳のときだった。
 犯人は小物の麻薬ディーラー。動機ははした金の借金トラブル。ブラジルの特定の地域では、何の変哲もないありふれた日常の風景。ドブの中の死体。
「喧嘩で身を立てようと思うな。そんな生き方は売れない芸術家と同じだ。いつか屈辱を味合わされる側になる。劇的な挫折と敗北を」
 死ぬ前の日の晩、酔った父親がそんな説教をした。届かなかった。そんな正論や、愛情じみた心配を見せたところで今更なにも戻らない。楔は散々打ち込まれた。心の奥深くまで、何千、何万。
 出来損ないの、くずめ。
 犯人のディーラーを探したが、一か月後には別の相手に殺されたことが分かった。つまらない事件だった。『彼』以外の世間にとっては。
 それから日本に渡り、母親を探し出し、見つけて殺した。
 六年かかった。
 心は何も晴れなかった。全ての手足を折って裸締めを喰らわせたとき、母親は許しを乞うたが、それではダメだった。
 本当に許しを乞わせたい相手は『最強』。
 空しい。
 それからまた数年が経った。名前も顔も変え、日本にもすっかり馴染んだ。人から奪い、その金で酒を飲み、麻薬もきめる。整形したはずなのに鏡に映る人相が父親に瓜二つ。錯覚だ。言い聞かせるが何かが限界に差し掛かっていた。
 そんなある日、路上で喧嘩に巻き込まれた。
 逃げる男と、追いかける男が三人。全員ガラの悪いチンピラだった。
 逃亡者と背格好が似ていたせいだろう。誰かが隣を横切ったと思った瞬間、背後から飛び蹴りを喰らった。知能が低い残りの二匹もそれにつられて、袋叩き。とんだ災難だった。反撃する気力はなかったし、耐えられないほどの痛みでもなかった。プライドは錆びていた。何も感じず、雨が過ぎるのを待つだけ。
 だが次の瞬間、大きな影が自分を蹴るひとりを覆った。  
 逃げていた男が戻ってきたのだ。チンピラの身体が空中を舞い、次の瞬間路上に叩きつけられる。
 背負い投げだった。
 残り二人も人違いに気づく。片方がナイフを取り出していた。対して、男は再び逃げるつもりはないらしい。腕に自信はあるのだろうが無謀だ。
 だから、今度は『彼』がナイフを持った男に技をかけてやった。
 背後からナイフを持った腕を掴み、瞬時にキムラロック。痛みでナイフを落とすと同時に、脚を掛けて転ばせ、腕菱木でへし折る。悲鳴。数年ぶりに技を使ったが、身体は自然と動いた。
 顔を上げると、人違い男が残るチンピラを豪快に投げ飛ばしていた。
「助かったよ。あんた強いな」
「……こいつらは?」
「ああ、仕事仲間……『だった』やつらかな。どうも折り合いが悪くて、どこに行ってもこうなるんだ。最後は必ず喧嘩別れするって星の下に生まれてきたらしい――負けたことはないけど」
 それが市ヶ谷純一だった。


「なぁ、俺と組まないか? ぴったりの儲け話があるんだ」
 市ヶ谷から誘いがあったのは、出会ってから一か月後のことだった。
「格闘技者を集めて、賭け試合をやる地下闘技場があるんだ。俺とあんたが組めば誰にも負けない」
「あまり気乗りはしないな。お前ひとりでで十分だろ」
「頼むよ。試合に出るのは俺だけでいい。練習相手がほしいんだ。あと、あんたの寝技を学びたい。もちろん分け前は出す。ギャラの半分でいい」
「気前が良すぎるな。裏があるんじゃないか?」
「そういうわけじゃないが……正直言うと、今のままじゃダメだと思ったから、あんたの力を借りたい。地下の試合を見てきたんだ。そこそこレベルの高い試合もあった。ただの喧嘩自慢相手なら今でも十分だが、あそこで勝つには本気で鍛え直す必要がある」
 市ヶ谷の熱心な勧誘を『彼』はのらりくらりと交わしていたが、ある話に興味を惹かれ、結局は練習相手を承諾することになった。
「噂で聞いたんだが、その地下には『最強』の男がいるらしい。強すぎて、ヤクザも手を出せない。ときどき行方不明になって周りから死んだかと思われたころにふらっと現れて、強いファイターを皆殺しにしちまうらしい。何十年もの間、無敗の男――ああ、言っとくが俺も本気にはしてないぜ。あくまで噂だ」
 なんだその馬鹿な話は。そんな噂を信じるのは、愚か者だけだ。
 そう答えたが、他でもない己自身がその話にどうしようもなく惹かれていることに、そのときはまだ『彼』は気づいていなかった。 
 いつ決めたは分からない。
 市ヶ谷相手に技の練習をするのは、『彼』自身が地下での試合に備えるためになっていた。柔道と自衛隊徒手格闘の技、人生と名前。殺して全て奪うことも決めていた。いつのまにか。
 四肢をへし折り、とどめは裸締め。
 腕の中に感じる、相手の首の筋肉が緊張から弛緩へと移行する数秒。無様な命の足掻き。練習中の不意打ち。いともたやすく殺すことができた。
 達成感はなかった。正確にはあるが少ない。これでは足りない。
 だが、心の靄は晴れていた。
 己に何が必要かを思い出すことはできた。ブラジルの賭け試合で連勝していたのは、もはや十年以上も前の話。あのころは勝つ度に感じていた。 
 これが親父の腕だったら、親父の脚だったら、親父の首だったら。
 これが『最強』だったなら。
 実際に、そうすべきなのだ。

 取り戻すことが、人生の意味。
 
 愚か者は皆同じ。そうやって、なけなし持ち金をリスクの高い賭けに託す。毟り取られることに気が付かない。己だけは食い物にする側であると思い込む。同じ鍋の底にいる者同士で。
 あるいは、これは蟲毒だろうか。
 毒虫の群れを同じ器に詰め込んで、生き残った最後の一匹を殺すための蟲毒だろうか。そうかもしれないし、違うかもしれない。確かなのは、死なない虫はいないということだ。
 どんなものにも終わりはくる。
 唐突に、理不尽に。
 己の人生が神に選ばれたのだと確信をした直後に、脈絡のない横殴りの『台無し』が訪れる。
 だが、それこそが足掻くべき瞬間だ。抗い、拒絶すべき瞬間だ。
 問われるのは、己の人生の真価。賭けてきた心の重み。
 絶命の断崖にこそ、人は戦うべきなのだ。
 戦うべき『だった』。


 地下闘技場、現在。


 その瞬間、『彼』は――『今の』市ヶ谷は戦うべきだった。
 こちらが毒を喰らわした、順当な勝利が確定したと思った瞬間、相手に別の毒を返された。予想の範疇を突き破る展開。
 だからこそ、戦うべきだった。
 己の命を守るために、相手との取引を持ち掛けるなどという『逃げ』は決して賢い選択などではない。なぜなら相手は狂人だから。この地下の闘技場に乱入してきた時点でそれは分かりきっていたはずだ。己と同じように万が一に備えて血清を用意しているという想定は、都合のいい思い込みに過ぎない。話の通じる相手ではない。交渉を持ち掛けるという行為自体が限りなく無謀。
 それゆえに市ヶ谷は許してしまった。
 秘蔵の毒をみすみす無効化されるのを、何もせずに見過ごすという最大の愚を。
 神経毒。
 日本でポピュラーなものの一つにトリカブトがある。北海道の伝統的なアイヌは、その毒を矢じりに塗り狩猟に使った。トリカブトは経口摂取でも効果を発揮するが、患部を周囲の肉ごと切り取れば、獲物の全身が毒に侵されることはない。
 同じことを、己の身体で。
 それが少年の出した神経毒への対処法。
 問題はどこに毒を打ち込まれるかだった。有刺鉄線の傷に偽装すること、四肢への関節技が主力武器であることを考えれば、末端部位がターゲットになることは予想できる。ただし、背中など自分では手の届かない箇所に毒を喰らう可能性も十分あった。
 だからこそ、あえて折らせた。毒の攻撃箇所を誘導したのだ。試合運びはまさに完璧。折られる可能性が高い以上、患部を即座に切り取る刃物は口の中に仕込むしかなかった。それゆえに脚に毒を刺された場合、患部の切除しようとしているのは体勢で気づかれる可能性が高かった。
 腕だったからこそ、ギリギリまで相手を騙せた。 
 運。
 確かにそれもある。しかし、そもそも『そんな計画』を思いつくこと自体がまともな人間には不可能だろうし、ましてや実行に至るなど。 
 狂気が呼び寄せた業運。
 同時に、計画は進行し続けている。
 全ての計画を根底からぶっ潰すという、少年の計画が。
 毒を無効化されたことを市ヶ谷が理解したのは、患部が食い千切られた二秒後。
 噛み跡はかなり深く、腕からは血が噴き出している。毒の麻痺は防げたがかもしれないがダメージはでかい。もう一度毒を打ち込めば、同じ方法で無効化することは不可能になる。十分だ。
 市ヶ谷の判断は早かった。
 依然として、寝技で負ける要素はない。もう一度捕まえれば殺生殺与奪を握ることは容易。狂人相手に可能性は低いが、交渉次第で毒の種類を吐かせることができるかも。無理だったとしても、処置を受けるためには最短で檻から生還する必要がある。痛みがあることから、コブラなどの出血毒が含まれている可能性が高い。時間経過で全身に回る神経毒とは違い、脚ごと切り落とせば死ぬことだけは避けられる。
 適格な思考だった。
 ただし、すでに状況は後手の対応者。
 少年の誘導は続いている。彼の狙いは市ヶ谷がすぐさまに攻撃に転じること。 
 つまり、安易な攻め。
 間抜けめ。
 少年は心の中で毒づく。無様さを重ねた甲斐があった。本日何度めになるかは分からない。だが、本当に喰らわせたかったのはこれだ。

 てめぇが準備した神経毒が混じる、血と肉片の特性目つぶし。

 それは完全なタイミングで市ヶ谷の顔面に命中した。反射的に目は閉じたが、間に合ってはいない。少量だが、確実に瞼の裏に届いている。眼球へのの痛み。ダメージは精神面にも及んでいた。己の軽率さ悔いると同時に、押さえつけていた動揺が判断力を奪い始める。
 顔をぬぐうが、目の痛みは引かない。手でこすっても悪化するだけだ。失明の可能性もある。
 その隙にも、相手からの攻撃はなかった。
 そうだ。
 組技の状況なら、目をつぶっても負けはしない。手足を一本づつ奪っているのだ。こちらの優位は変わらない。市ヶ谷は目つぶしを喰らう直前の位置取りから己の位置を推測し、即座に移動して、檻の角の背にして両手を広げ構えた。背後からの攻撃を防ぐことができる最も優位な位置取り。
 来るなら来い。
 やはりそれも適格な判断――つまり適格の範疇にとどまる凡庸な判断だった。
 所詮、狂人の掌の上。
 こちら側の安全位置、檻の中心で少年は獲物の姿を見据える。
 噛み千切った患部を、包帯できつく縛り止血。焦る必要はなかった。左腕のメリケンサックも相手の意識を逸らすための布石だ。本当に檻の中に持ち込みたかったのは包帯のほうだった。ただし用途は止血のためだけではない。
 折られた手足を縛り、固定するため。
 前腕は二の腕、ふくらはぎは太腿に。そうすれば折れた手足はぶらぶらと勝手に動いて身体のバランスを崩すことはなくなる。
 その間も観客たちの罵詈は飛んだが、数は市ヶ谷に対するものが圧倒的に多かった。五分以前なら、市ヶ谷に勝たせるために観客が少年の位置を教えるということもあり得たが、すでに人気は一方に集中している。自業自得。策に溺れた策士。実力ではなく気質という点で言えば、どちらが時期『四天王』に相応しいかはもはや明らかだった。観客に損を喰らわせという発想の時点で、人気ファイターにはなれない。いや、たとえ損をさせたとしても滾らせなければ。
 この檻で強者としての期待を裏切るものは、別の期待をかけられる。
 無様に果てる敗北者としての期待。
『いつか屈辱を味合わされる側になる。劇的な挫折と敗北を』
 父親からの、最後の忠告を市ヶ谷が思い出すことはなかった。端から記憶にない。意味を理解しよとすらしなかった。己を賢いと思い込んでいるからこそ、愚かなのだ。愚かさが支配するこの地下で生き残るのならば、賢く振る舞うのは根本が矛盾している。むしろ誰よりも愚かでなければ、地獄の底を突き破ることはできない。
 手足を固定した少年が立ち上がる。 
 片足立ちでは通常の立ち技打撃の大半は使いものにならない。だから特殊な打撃を用意した。
 傍から見たらアホそのものだ。
 練習につき合わせたユキオの言葉を思い出す。確かにそうだ。こんなモーションのデカい打撃を、目を閉じて、両手を広げ待っているようなやつは間違いなく。
「おい、ヘボ柔術家」
 少年の声に、市ヶ谷は身構える。だが動かない。声から距離が遠いことは分かるはずだ。檻の中央に誘い出そうとする罠だと思うだろう。自分の優位にしがみつく。
「俺が何の毒を使ったか教えてやろうか。知りたいだろ」
 市ヶ谷がぴくりと反応するが、やはり動く気配はない。相手の意図を探る。探っているつもり。この状況自体が罠という思考には至らない。
「無視するなよ。苦労していろいろと試したんだぜ。おかげで一番強力なやつを発見できた。めちゃくちゃ痛いだろ。俺も驚いたぜ。ありゃ正直言って地獄だ」
 手足を一本ずつ折られた相手が、この距離を一気に詰めることは不可能。
 それは思い込みに過ぎない。あれだけポキポキ折りまくっているのだから、一、二本折られる前提で対策や反撃手段を考えて当然だ――と狂人は考えた。
 常軌の外からの打撃。
 ヒントは市ヶ谷の経歴だった。ブラジルと聞いたとき、イメージしたのはブラジリアン柔術ではない。
 カポエイラだ。
「答えろよ、間抜け野郎。どうだった? 俺の――」
 片足のけんけん飛びでリズムを取りながら、標的との距離を見据える。まるでオリンピックの体操選手。喰らわせるのはウルトラC。

「――俺の、タバスコ入りの牙の味は」
 
 市ヶ谷がその言葉の意味を理解する前に、少年は片足で前方へと跳んだ。
 前転し頭を基点に、捻りと同時に全身のバネを使って、一気に蹴り脚を加速させる。
 市ヶ谷から見れば斜め左下。
 鋭く入った足先が、顎を捉えていた。
 打撃の反動で有刺鉄線が背中に深く突き刺さる。動けない。脳震盪は起こさなかったが、完全な混乱状態。
 何が起きた。
 タバスコ? なんの毒だ。
 そんな名前のヘビは知らない。蜘蛛か? サソリ? 新種の生命体?
 バカな。
 いやそれよりも、今は有刺鉄線を引き抜くのが先――
 次の瞬間、さらなる追い打ち。左肩に刺すような痛みがあった。
 実際に刺された。
 何に?

 ブラックマンバの神経毒を塗ったカミソリの刃だった。
 己の毒だ。

 腕を掴まれ、無理やり肩に押し込まれていた。
 抵抗しようとした瞬間、次は顔面に鋭い痛み。今度は相手のカミソリの入れ歯だ。一瞬で鼻を喰い千切られる。鼻孔にタバスコが入るのが分かった。激痛。
 ひるんだ直後、今度は頬肉を齧り取られている。止まらない。
 タイミングを逸していた。
 全ての思考が一歩遅れている。いつの間に覆された。最初からか。こんなガキに。
 思えば一か月前。
 ウィンの試合に乱入したあのとき、このガキは死んでいてもおかしくなかった。普通なら死んでいないと異常だ。
 つまり、こいつは異常なのだ。
 存在自体が。
 それに気づかなかったのが、この状況を招いた原因。チャンスはあった。潜伏先を一方的に突き止めていたのだ。殺すことはできなくても、今日この場所に来ることを防ぐことは十分にできたはず。だが、わざわざそんな手間をかける必要はないと侮った。
 一方で、このガキは異様な手間をこの瞬間のために仕込んできた。運営と取引し、己の手足を差し出し、あえて毒を喰らい、小学生並みのハッタリで隙を生み出し、こちらの計画を無効化するという戦略を。
 全ては相手を侮った、己の失敗。
 それを悟った最後の最後、ギリギリの残り一歩で。
 冷静さを取り戻した市ヶ谷は、この局面における正しい判断を下すことができた。
 つまり愚かな判断を。
 
 異様な音で空気が爆ぜた。
 
 観客の一部がそれに気づき、怒号の種類が変わっている。
 市ヶ谷に噛みついていた少年が、その音の直後に後方へ突き飛ばされて動かなくなったからだ。
 『汚ねぇぞ』『反則だ』『卑怯者が』
 小さな毒のナイフならば誤魔化しようもあったが、もはや言い訳は不可能。檻の中に持ち込んだもう一つの武器、左手に仕込んだ手袋型の改造スタンガンの存在はその場のほとんどの人間に知られることとなった。おまけにバッテリーが焼き切れるので、一度しか使えない不良品。
 元々、そういうつもりの武器だった。使ったら最後、その場で己の命が助かるという以外、今までの全ての努力を泡に変える。明かな反則を働けば、たとえ試合に勝ったとしても『四天王』は対戦することに難色を示すだろう。それは『運営』にもとっても利用価値がなくなることを意味する。
 知ったことか。
 もともとの動機がそうなのだ。
 『最強』を殺したいだけだった。己が『こいつは最強だ』と思い込んでいるだけの誰かを殺して、スカッとしたいだけだった。憎悪を叩きつけられるなら、端から相手は誰でもよかった。
 クソガキめ。
 
 もう、お前が『最強』でいい。

 市ヶ谷は、両目を見開いた。
 片目は痛むが見える。もう片方は霞んでいる。おそらく、見えていないほうには自前の神経毒が入ったのだろう。失明すればいい。すでに血中に毒は入り込んでいる。運動機能に支障が出るまで、およそ一分。
 それまでに全てを終わらせる。己の人生の目的全てを。
 この局面に至り、狂気は別の狂気と対峙する。
 一切のしがらみから解き放たれた、剥き出しの状況。それこそが本来の檻の姿。
 体格と柔術スキルの圧倒的な差。打撃主体で四肢の内二本を喪失という不利。ふざけたハッタリは、もはやこの場で通用しない。
 市ヶ谷は本日二度目のマウントポジションを取った。
 残った片足はもはや重要な反撃手段ではない。封殺べきは右腕と剃刀の噛みつき。
 パウンドで顔面を叩き潰してから腕を折り、最後に首をへし折ってやる。
 三十秒も必要ない。最短で決める。  
 同時にマウントを取られた少年は、短い気絶から意識を回復させていた。
 一度目のマウント。そして一月前のウィンに奪われたマウント。二つが頭をよぎり、怒りを燃やす。
 己の『最強』を証明するために。
 俺は勝つ。あのときも、今、この瞬間も。
 記憶と、屈辱と、過去の事実を捻じ曲げる。
 己の敗北を決して認めぬ、愚かな狂人ふたりは笑う。
 正真正銘、最終局面。




 決着まで、残り四十九秒。

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