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格闘衝動

作:龍宇治

第二十一話『逆境衝動』

 
 話は三週間ほど前に戻る。
 
「寝言を言ってんのか?」
 そう言ったのは、ジジイだった。診療所でのことだ。
 市ヶ谷がケージ内に持ち込むであろう毒の話をして、返って来たのがその反応だった。当然と言えば当然だが、俺は相手が納得するまで丁寧に説明してやるほど親切ではない。
「いいから、答えろよ。持ち込むとしたら、どんな毒が考えられる」
「……俺はリングドクターだぜ。今は廃業してるがな。リングドクターつうのは、リングで素手で殺し合ったやつらの怪我を見る仕事だ。いいか、素手だぜ? 毒喰らった患者なんて見たことあるわけねぇだろうが。それとも市ヶ谷ってやつは、マムシか何かか?」
 ジジイは咥えたタバコに火を付けたが、俺はそれを奪って親指で火をすり潰した。
「常識とか、そういうのは聞いてねぇよ。持ってる知識の範囲でいいから、さっさと答えろ。あんたぐらいの腕で、まったく無知ってことはないだろ。答える気がなきゃ、金を返すかどうかも考えないとな」
「……クソガキが」
 舌打ちをして、頭を掻きむしってから、ジジイはタバコをもう一本取り出して咥える。俺が再びタバコを奪おうとすると、やつは手で制止してきた。
「待てよ。専門外はマジだ。考えるのに一服させろ」
 タバコの煙をよく吸い込み、ゆっくりと吐き出してから、ジジイは独り言を呟くように言葉を続けた。
「……まぁ、そうだな。ケージ内に持ち込むなら、まず少量で効果があるもの。あとは即効性も必要か……本当にケージ内か? 試合前に食べ物とかに混ぜて、時間差で効く毒のほうが現実的じゃねぇのか」
「市ヶ谷の毒はウィン対策だ。『四天王』相手に試合前に毒を仕込むのは現実的じゃあない。それができる相手ならとっくの昔に『運営』がやってるだろ」
 ジジイは感心したように鼻を鳴らした。灰になったタバコの先端が、携帯灰皿の中に落ちる。俺は煙たくて、咳をした。 
「まぁ普通に考えれば、神経毒だな。即効性あり、主な作用は麻痺。致死量でなくとも、相手の動きを鈍らせる効果は高い。武器としてはそんなところだろ」
「なるほど。大体は俺と同じだな。安心した」
「何だよ。てめぇで見当ついてんのか」
「先にこっちの考えを話したら、先入観が入るだろ。いいから続けろよ」
「ったく、生意気なガキが……まぁ、そうだな。神経毒って言っても数が半端じゃあねぇ。衆人環視でケージ内に持ち込むとなるとかなり微量になるから、毒性がかなり高いものには限られるだろうが、それでも種類を特定するのはほぼ不可能だろうな。市ヶ谷本人に直接聞いたほうが早い」
「状況から逆算はできないのか。例えば、日本国内で容易に入手できる毒とかなら、絞れるだろ」
「日本で手に入れる楽さを考えるなら、有名どころでトリカブトあたりか。北のほうにいけばいくらでも自生してっからな。だが、状況ってんならこの街には色んな裏ルートがある。金次第でもっと珍しい毒を手に入れるのは簡単だろうさ」 
「そうか。じゃあ、そこらへんも思った通りだ」
 俺の答えに、ジジイはむっとした表情になった。タバコは根元まで灰に変わっていて、三本目に火が点けられる。
「勿体ぶってんじゃねぇよ。本当にイライラさせやがって。そんな態度なら、協力しねぇぞ」
「自分の考えが正しいか確かめたかっただけさ。本題はこっからだ」
「何だと?」
「格上の相手に使うんだ。やつの性格なら、万が一、自分が喰らう可能性は必ず考慮に入れる。つまり、使うのは血清を作れる生物毒だ。主成分は神経毒系だろうけどな」
「そこまで自分で調べたんなら、わざわざ俺に聞くんじゃねぇよ」
「だから確認だって言ったろ。俺の注文は血清のことだ。あんたなら、今言ってた裏ルートにも明るいんだろ。ヘビ、クモ、サソリ、できる限りの種類を集めろ」
「当てずっぽで打つ気か? 分かってねぇな。血清ってのは他の生物に作らせた抗体をそのまま身体にブチ込むもんなんだよ。つまり、血清そのものに自前の免疫機能が過剰反応する危険がある。当たりを引くまで色んな種類の血清を打ちまくるなんてしてたら、拒絶反応でショック死するのがオチだ。市ヶ谷の毒を特定できなきゃいくら準備したって意味ねぇよ」
「それでいい。あくまで最終手段だ。もっとスマートなやり方を考えてある。まぁ、あんたにはまだ教えないけどな。本番までのお楽しみってやつだ」
「……そうかよ。別に、口出しはしねぇけどな。スマートだと? どうせイカレた方法なんだろうが。狂ってやがるよ、お前は。もうたくさんだ。勝手にやってろ」
 ジジイは散々まくしたてたが、それ以上俺のアイディアについて詳しく聞こうとはしなかった。苛々しながらタバコをスパスパ吹かすペースを上げている。俺はその態度に、少しわざとらしいものを感じた。
「血清は、ちゃんと用意しろよ」
「用意しなきゃ、また金返さねぇって脅すんだろうが。やってやるよ、クソが」
「それと、あと二つほど用意してほしいものがあるんだが」
「……今度は何だ」
「血清ほど値の張るもんじゃあない」
「そうかよ……で、どうやるんだ、実際のところ」
「どうって?」
「毒対策だよ。お前のこったから、まぁロクな方法じゃあねぇだろうがよ。これだけ手を貸してやってるんだ、それぐらい教えてもいいだろ? なぁ、他のやつにはバラさねぇからよ。俺は口が堅ぇんだぜ」
 嫌に目をキラキラさせながら、ジジイは俺の顔を覗き込んできた。加齢臭とタバコの臭いがキツイが、悪ガキみたいな表情だった。さっきまで興味のないふりをしていたくせして、聞き出すきっかけができたとたんこれだ。
 俺は溜息をついた。
「教えてもいいが、こっちの条件を叶えるのが先だ」
「ああ、そんくらい分かってるよ。だが、ちゃんと教えろよな、約束だ」
 ノリノリな口調でジジイは答えた。気色悪いが、気持ちは分からなくもない。
 大抵の悪巧みは、計画を練っている間が一番楽しいのだ。




 試合開始から、一分五十秒後。

 やられた。
 そう思ったのは、肘の靭帯をブチ切られる音が聞こえた後だった。
 喰らった技は関節技の基本、腕ひしぎ十字固め。俺は立ったまま右半身をフェンスに固定されていたので、飛びつき十字気味に極められていた。
 いつも通り激痛に歯を喰いしばりながら、しかし焦りはしない。
 市ヶ谷と自分との技術差を考えれば、手足の一本や二本折られることは当たり前だ。むしろ、折られた瞬間こそがこちらにとって攻撃のチャンス。
 肉がブチブチ割ける音とともに有刺鉄線から自由になった俺の右腕は、相手の股間を狙って伸びる。こちらも血の目潰しはやられたが、眼はつぶっていた。見えないのは相手だけだ。
 掴んで、潰して、千切れるまで離さないつもりだった。
 次は右腕を折るというならそれもいい。有刺鉄線を利用できる位置取りになるし、壊し合いの根競べならこちらが優位だ。
 だが手が届く前に、市ヶ谷は次の動作に移っていた。
 折れた俺の左手首を掴み、脚の間に挟んだままで前転。
 クルリと一回転したときには、俺はうつ伏せに押さえ込まれ、今度は左肩の関節を極められている。
 オモプラッタ。肩甲骨という意味の名をもつその技は、相手の腕に片脚を絡ませ背後から極める。
 ディフェンスはユキトから学んでいたが、こちらが反応する前に技の形はできていた。普通なら、肩関節も外されているタイミングだ。
 だが、すでに腕ひしぎを喰らった俺の左肘は、その分可動範囲が広くなっていた。
 強引にねじり、腕を引き抜くと同時に立ち上がる。
 今度は俺が攻撃する番だ。有刺鉄線は自分から見て市ヶ谷の対角線上にある。動かせる右腕でトゲごと掴むと同時に、両脚は床を離れた。
 いつかの中国野郎に喰らわした、ケージに体重を預ける金網式ドロップキック。 
 は、空振りしていた。
 すぐに理解した。腕ひしぎを極めてから派生したオモプラッタ。強引に抜けられる可能性の高い(実際俺はそうした)あの技はフェイントだった。あえてエスケープさせ、俺の反撃のタイミングを一歩遅らせたのだ。
 バックステップをしながら、目に入った血を拭う市ヶ谷が見えた。
 両脚蹴りを外し床に着地した俺は、すぐさま右手をケージのトゲから引き抜く。
 直後に、相手の直突きがボディを打った。
 吹っ飛ばされ、有刺鉄線が背中に刺さる。抜くことは簡単だが、回避動作はワンテンポ遅れる。フィンガージャブ。今もっともヤバいのは、視覚を潰されることだ。
 俺はあえて市ヶ谷の狙いに乗り、残った右手で両目をガードした。
 がら空きの水月に、前蹴りが入る。
 やつの全体重が衝撃となって俺の筋肉を抜け、直接的に胃を叩くのが分かった。横隔膜が反応し、呼吸が止まる。
 俺はこみあげてきた胃液を、そのままやつに吹きかけた。
 クソったれが。
 やつはまた距離を取っている。ゲロは床に飛び散った。厄日だ。口に含んだものを吹きかけたり、皮膚をつねり上げたり、執拗に金的を狙ってみたり、今日はまだ女々しい攻撃しかしていない。なのに左腕を失った。フラストレーションが溜まっている。
「血、ゲロ、次は口からクソでも出すのか」 
 ニヤつきながら、市ヶ谷が言った。俺はその顎を正拳突きを打ち込み、袋に入ったまま粉々になるクッキーのように、皮膚を中でぐしゃぐしゃになるまで殴り続けたいと思う。一方、表面的にはあざ笑うような態度だったが、やつの眼は獲物の様子を伺う狩人のものだ。
 舐めやがって。
 有刺鉄線を引き抜き、ちらりとタイマーを見ると二分を過ぎたところだった。
 あのオモプラッタのフェイント、市ヶ谷ほどの柔術家なら、首や脚関節を狙う動きに繋げられたはずだ。そうしなかった理由は分かっている。
 五分で仕留めるという偽の予告。それに隠した、本命の試合終了時間。
 フロアのオッズ表によると、怪しいのは六分〇秒台と七分十秒台、そして九分三十秒台の三カ所。どれが正解でも、だいぶ先だ。市ヶ谷があのまま寝技を続けていれば、俺の手足の関節を全て破壊し止めを刺すのに三十秒も必要なかっただろう。あの時点での寝技は、やつにとって早すぎたのだ。かと言って、時間まで手加減しながら寝技の状態をキープするという選択肢もやつは嫌った。俺の女々しいつねりや金的狙いは、危機感を与えるという点では有効だったわけだ。
 最終的に、やつは『まだ』スタンドの状態のほうが楽だと判断した。
 ストライカーの俺に対して、空手家の俺に対して、立ち技で挑むのが楽だ、と。
 ムカつきで血が滾った。
「てめぇ、逃げてんじゃねぇよ。俺の骨が全部折れるか、俺がお前の金玉掴むか、そういう勝負だろーが。ビビッて途中でやめんなよ。最後までやれ」
 俺はそう言いながら、折られた左腕の状態を確認した。
 靭帯は完全にダメにされたようだが、関節そのものはまだかろうじて繋がっているらしく、思っていたよりはブラブラした感じはない。即座に金的を狙ったことが、やつから完全に折る余裕を奪ったらしい。もちろん肘を曲げることは一切できないが。
「……お前にしろ、ウィンにしろ、何で『そう』なんだ? やった分だけやり返されないと感じないっていうなら、変態同士でやれよ」
 そう言いつつも、市ヶ谷は俺に手招きをした。ケージの中央に戻り、仕切り直しを誘っている。俺はそれに応じた。
「好き好んでこんな檻の中で闘るなんてのは、やってくださいって懇願してるのと同じだ。特に俺に対してはな。てめぇも心の底では変態ってことだ」
「……ドン引きだな、その解釈は」
「いいから、試してみろよ。ハマるぜ。体は正直だ」 
 俺たちはケージの中央で、再び向かい合う。試合開始時と同じ位置だが、俺は左腕を折られた。こちらもやつの内腿を二回ほど蹴ってやったが、オカマ歩きをさせることすらできていなかった。痛みのダメージは回復している。
 市ヶ谷は会話を長引かせようとはしなかった。時間稼ぎをするには、まだ俺は仕上がっていないと判断したのだろう。確実なフィニッシュに繋げるには、手足のもう一、二本は折る必要がある。今はそのための時間。それが市ヶ谷の思考だ。
 こちらの残りは右腕と両脚。
 タイマーは、二分四十秒台に入っている。
 まだ即効で取りに来るような時間帯ではない。『二本目』を奪えば、やつは圧倒的に有利になってしまう。ある程度自然な流れで倒すことは勝利条件に含まれるはずだ。手足が折れた相手にモタモタ時間を潰していれば、馬鹿な観客も自分たちがカモにされたことに気付いてしまう。だから、関節技の使用には制限がある。毒についても、それは同じ。
 もっとも近い六分〇秒台が正解だとしても、やつの全力が解禁されるのは五分を過ぎてからだ。
 それまでに、こちらの策を完成させておく必要がある。
「折ってみろよ」 
 サウスポースタイルから右腕を突き出し、俺はまたやつを挑発した。ああ、何度だってやってやるさ。市ヶ谷は薄ら笑いを顔に浮かべたままだ。
 それは折ってほしいと懇願してるって意味だよな?
 やつはきっと、心の中でそう返したはずだ。
 言葉代わりに、直突きが飛んできた。
 突っ込む打撃。その軌道は素直だ。メリケン付きの片腕を折ったとたん、被弾覚悟の体格差のゴリ押し戦法。安易な動きだった。
 俺は腰を落とし、頭を下げて身長差を活かしやつの縦拳の下をくぐる。
 踏み込みでオーソドックススタイルにスイッチし、間合いの内側に入り込んでいた。狙いは、腕を上げガラ空きの脇腹。右拳に左腕の恨みを込める。
 その突きは、左サイドに回り込まれ避けられた。
 見えていたわけでも、予想していたわけでもない。初めから直突きは次の攻撃に繋げるための囮だった。関節狙いのローがモロに入る。
 左脚が痺れ、体勢が崩された。一瞬の隙。だが、組み付く時間にはまだ早い。狙いは相変わらず目だ。予想通り、フィンガージャブが左目を狙って伸びてくる。
 打ちこんだ右腕を戻すには一歩遅く、折れた左腕では『ガード』はできない。
 おかげで、こちらも隠すつもりだった武器を使わなければならなかった。肘がイカレても、先端に付いた重りは遠心力を利用した武器になる。攻撃は最大の防御。
 腰と肩の力で思い切り振り抜いた左腕は、フィンガージャブの手首を空中で叩き落した。
 肘が思い切り痛む。もうしばらく温存し、いいタイミングで使いたかったが、背に腹は代えられない。市ヶ谷はすぐに間合いの外へと退避している。
 次の瞬間、間髪入れずに再び直突きが命中。
 狙いはこちらの胸の高さ。俺はバックステップで衝撃を逃がすが、避けきれずに一瞬喉が詰まる。振り切った直後の左腕を反撃に使う暇はない。肘が動かせないので隙が大きいという弱点は一瞬で見切られていた。
 またも関節蹴りで、体勢が崩れる。俺は反射的にフィンガージャブとのコンボを警戒する。
 ワンパターン野郎め。カウンターの準備は出来ている。
 俺は口内に溜めた血と少量の胃液の混合物を、やつの顔面目がけ吹きかけた。
 だが、それはタックルの体勢に入っていた市ヶ谷の頭上をかすめただけだ。予想外だった。
 ブラジリアン柔術にもタックルはあるが、競技ルールとしては倒れた後のポジション争いと技の掛け合いを重視するため、倒す・倒されない技術とそのための身体作りはレスリングに一歩劣る。だから市ヶ谷は、同じパターンを繰り返し、フェィントが決まる最高のタイミングを待った。それも隠した技の一つ。
 テイクダウンは成功していた。 
 一瞬、ユキトの顔が浮ぶ。あいつはこの試合を見ているだろうか。レスラーでもないやつに倒されたなんて知ったらきっと馬鹿にされるだろう。クソったれが。
 完全なマウントポジションをとられた。
 こちらが反撃に移る前に、動くほうの右腕を押さえ付けられる。一瞬やつと目が合った。十分に痛めつけてから『残り』をへし折る。そういうつもりらしい。
 ウィンと闘ったときと同じ状況だ。あのときはマウントの途中で市ヶ谷が乱入してきた。もう少し続けば、俺は勝てた。きっと勝っていた。
 ここにはウィンは乱入しに来てはくれねぇぞ、市ヶ谷。
 お前は負けるぜ。
 ニヤリと笑った俺の顔面に、鉄槌(拳骨打ち)が落ちる。
 一撃で鼻が折れ、血が噴き出した。後頭部は床に着け、コンクリへの叩きつけは防御していたが、ダメージはそこそこ。悪あがきの膝蹴りをやつの背中に打ち込むが、効果は薄い。片腕は曲げられないし、体重差も大きい。ウィンのときのように重心を崩して脱出することは不可能だった。
 二発目のパウンドを打つため、市ヶ谷が拳を振り上げる。
 同時に、俺は渾身の力を肩に込め、折れた左腕を振り上げた。
 肘が完全に脱臼しなかったおかげで武器としての体裁は保っている。ただし悪あがきに近かった。床に背中をつけられた状態では遠心力で威力を出すことはできないし、こちらが下ならメリケンの重量も活かせない。
 軌道を変えたやつのパウンドが、左腕を弾き飛ばす。大振りなせいで、こちらが先に打っても防がれてしまっていた。だが、俺の悪あがきはそれで終わりではなかった。
 再び口から目潰しの血を飛ばす。
 やつは避けたが、次は押さえ付けられた右腕だ。力を込めて持ち上げる。気づいた市ヶ谷は、右手に体重をかけ直す。やつが手を離すことは期待していないが、その隙を突いて腕をつねり返すぐらいならできる。そこから痛みのコントロールで状況を動かしてやる。
 しかし、市ヶ谷は俺の右腕にさらに捻りを加えていた。 
 手首を極め相手を拘束するのは古武術や合気道からインスパイアされた徒手格闘の技だった。捕縛術と呼ばれるそれは折れはしないが、動かすことはできない。もっと悪い状況になった。詰め将棋。少しづつ、抵抗する手段を奪われる。それが市ヶ谷の戦い方。
 その間も、パウンドは容赦なく降って来る。
 三発は何とか左腕で邪魔をして額で受けたが、四発目は喉に、五発目は左眼球を瞼の上から殴られた。ダメージは蓄積。目を開くと、視界の左半分に異常があった。焦点が合わず、ものが二重に見えている。眼球は動かせるが、視力回復には時間がかかるだろう。これが一番デカいダメージ。
 俺は懲りずに目潰しを口から吐き出す。
 今日、何回目かは数えていない。
 やれることは少なかった。最初から、少なかった。体格差、リーチ差とはそういうものだ。有効ダメージの通り方が違う。むこうワンパターンな戦法がこの上なく厄介になり、一方こちらは見苦しい抵抗を続けるしかない。そしてピンチは輪をかけてピンチになる。
 ウィンのときと同じだ。
 ピンチが最大のチャンスになる。
 最後の悪あがき、俺のなけなし目潰しの血は、市ヶ谷の目の中に入っていた。同時にやつは動き、マウントから次の攻撃ポジションへと移行している。そうなるように俺が誘導したのだ。
 やつはすでにこちらの思考トラップに嵌っていた。
 マウントポジションという絶対有利な状況。視覚を失ったとはいえ血なんて拭えばすぐにとれし、その隙にメリケンやつねりなど反撃を喰らったとしても、ポジション自体をキープすること自体はフィジカル差を考えれば難しくはない。
 だが、それはヤクザな『運営』の監視下で行われる『まともな』ルールの試合での話だ。
 この戦いにはすでに複数の不確定要素が入り込んでいる。市ヶ谷がそれを失念するはずがないと俺は確信していた。もっと具体的に言うなら、やつは『俺がメリケン以外の武器を隠して持っている可能性』を必ず疑うということだ。目潰しに個室するのは、隠し持った第二の武器を確実に使うため。やつはその猜疑を捨てられない。だからこそ、市ヶ谷は視覚がない状態で手足の感覚を頼りに技を極めるという選択をし、こちらの反撃の隙を潰すはずだ。やつにはそれだけの寝技スキルがあり、俺のディフェンス能力は低い。
 安全策。
 やつ自身の性格と、状況がそれを選ばせる。
 パウンドを打っていたやつの腕が、俺の左足首を掴んでいだ。
 狙いは脚関節。
 マウントからなら素直に右腕を狙うのが定石だが、この状況では武器が仕込まれている可能性の高い包帯を巻いた左腕の攻撃範囲外に出る必要がある。さらに時間調整の主導権を握るには、獲物の逃げ足を狙うのが確実。タイマーを見る余裕はなかったが、そろそろ五分は近い。どこかで脚を狙ってくることは初めから予想していた。つまり、こちらの反撃プランはいまだ進行形。 
 極められて右手首の脱出方法もすでに準備が完了している。
 有刺鉄線を素手で掴んだのは、蹴りを放つためではない。掴むことそのものが目的だった。傷口からの出血は、潤滑油代わりにちょうどいい。二週ほど前に実際に試したので、最適な位置に傷をつけることができた。相手のテーピングがグリップになっているせいで引き抜くことまではできないが、手首の向きを返せば極めを外すことはできた。掴まれたままだが、右手の自由は取り戻した。
 やつは手首を極め直そうとするが、血で滑るから無駄だった。目が見えていないせいで、状況判断が遅れている。
 俺の狙いは相手が胴に巻いているバストバント。
 一か月前、俺がへし折ってやったアバラを固定するためのもの。
 その隙間に手を入れ、取っ手代わりに使う。これで脚関節には移れない。
 マウントからの脚関節なんてのは、柔術の定石から外れた無駄の多い動きだ。たとえ柔術スキルに圧倒的な差があるとしても、相手が油断していればディフェンスは余裕。ただし、あくまで『脚』関節のディフェンスだ。
 バストバンドを掴んでいる右腕は、恰好の標的になる。
 もっともかけやすい腕ひしぎは、手首を血で滑らせ向きを変えればディフェンスできる。やつの選択肢は四つ。
 腕ひしぎのフェイントからオモプラッタ(二回目)。
 左足首を離して両腕で腕関節をかける。
 こちらの首に脚をかけて横三角締め、そこから血を拭って腕を極め直す。
 俺の右腕を引きはがし、予定通り脚関節をかける。
 一つ目なら、あえて抵抗せずにオモプラッタを喰らい、肩関節を外させる。やつは立って距離をとるだろうが、目に入った血を拭われるより先に蹴りを入れるチャンスはある。金的か鳩尾かこめかみか、とにかく急所に当たれば形勢は逆転。
 二つ目もディフェンスは捨てる。密着状態に加え、来ると分かっている技なら、相打ちで噛みつくことはできる。恐らく市ヶ谷の肋骨はほぼ完治していて、バストバンドは密着状態での噛みつきを防ぐためのものだ。だが、視覚を潰したことを差し引けば有効カ所への攻撃は可能。
 三つめも同様に噛みつきのチャンスはある。三角締めで首を絞めても、最後まで極まればやつの勝利条件は満たせない。ギリギリのところで同じ体勢から腕関節を極める三角固めに移行するつもりだろうが、逆に俺には落ちたふりをするチャンスがある。 
 市ヶ谷は四つ目、右腕を引きはがす選択を取った。
 やつの実戦寝技師としてのキャリアが、噛みつきを警戒したのだろう。脚をこちらの肘にひっかけ、そのまま反対方向へ押し離そうとする。俺の指は外れなかったが、バストバンドが引っ張られ僅かな隙間ができていた。こちらの手首を掴んでいたやつの手が、素早くスライドしその中に滑り込む。
 掴まれたのは、小指と薬指。外側に向けてへし折られた瞬間に、俺の手はバスバンドから離れていた。
 もちろん、わざとだ。
 折れた二指にも血はついている。手首よりも細い分、ひっこ抜くのは簡単だ。
 隙間に入った血と空気が擦れ、栓が抜けるような音を立てる。指二本を代償に、こちらの右腕は完全にフリーになった。
 相手も焦ってはいない。指を抜かれた瞬間、迷いなく脚のほうへと体勢を入れ替えていた。目が見えない状態で、右腕を再び掴むことは不可能だ。腹を決め、反撃を喰らう前に技をかけることに賭けた。思い切りのいい判断。
 だが、生憎やつの手足は無駄に長い。 
 自由になった右手で、足先を捕まえてやった。自分の血のせいで掴んだ状態をキープすることはできない。加えて動く指は三本のみ。だから、アンカーのように指先を突き刺してやる。
 人差し指と中指で足の人差し指を挟み、先端部を中足骨の間に、親指は足裏の母指球の下辺りに、それぞれ抉り込んでいた。肉が潰れて裂ける音。
 市ヶ谷がアキレス腱固めの形を作るのと、俺がやつのアキレス腱に噛みつくのは同時だった。
 極め技対噛み技。アキレス腱の取り合い。
 純粋な寝技なら完敗だが、痛みによるコントロールはこちらの土俵だ。加えて、個々の脚関節技に関してはユキトと散々対策をやりこんだ。問題は、技の連携についていけるかという一点。市ヶ谷は激痛に耐えながら技をかけた。それは生理的反射を超え、技が身体に染みついているということを意味する。俺の痛みがやつの寝技師としての理性を破壊するか、やつの技が俺の肉体を破壊するか。これはそういう綱引きだった。
 俺が与えた第一の痛みは、捉えた足の人差し指の骨折。
 中指と人差し指の間に挟んだそれは、何の抵抗もなく折れた。まずはそれでアキレス腱固めを外す。
 アキレス腱固めは、相手の足首を脇に抱え、手首でアキレス腱を圧迫することでダメージを与える。その技から入ったのは、片腕で技の形が作れるからだ。やつは俺の右手首を握ったときつけられた血を拭いとる暇を作った。つまり、初めから他の技に展開するつもりの繋ぎだ。
 この技の弱点は極まるポイントが狭いこと。足の指を折った痛みで相手の腕の力が緩んだ瞬間、俺は自分の足首をひねり、ポイントをずらした。
 その時点で、すでに市ヶ谷の技は切り替わっている。 
 アンクルホールド。
 アキレス腱固めとほぼ同じ体勢から、捩じりを加え足首靭帯を極める技。極め技ではあるが、技のかかり方や足首の筋肉の関係から即座に靭帯が切れることは稀であり、痛みでギブアップを取る技に分類される。極まってもすぐに抜け出せば、歩行機能に支障はでない。
 捻じりの方向に合わせて身体を回転させることで、アンクルホールドも無効化できた。ここまでは完璧。俺たち二人は脚で絡み合ったまま、背中を天井に向ける。
 それまでの攻防で、俺は噛みつきの痛みによるディフェンスは市ヶ谷にとっても未体験だと確信した。
 最初のアキレス腱固め、次のアンクルホールド、どちらも極めてから腱を破壊するまでにタイムラグがある技だ。極まった瞬間に靭帯を破壊するヒールホールド、あるいは膝を可動域の反対側に曲げる膝十字固めのほうが関節破壊には適しているが、こちらが片足のアキレス腱に噛みついている限りはそれらの形には入れない(ヒールホールドは『両膝』で相手の足をしっかりホールドする必要があり、膝十字は相手との身体の向きを垂直にしなければかけれない)。
 この体勢、アキレス腱を捨てて(俺に噛み切らせて)強引にヒールホールドに入るのが最適解だ。それが最速かつ、俺がほぼ確実に反応できない攻撃。ゴリ押しに踏み切れなかった理由は市ヶ谷自身の性格。柔術家としての熟練度が、行動を縛る枠になった。俺はまだ優位にいる。 
 身体を回転させた瞬間、俺は掴まれていないほうの右の足先を、相手の股間部分に添えている。 
 足の指によるつねりは、まだ市ヶ谷には見せてはいない。
 それでやつのタマを潰すと同時に、足場にして左脚を引き抜く。
 それで逆転。俺の勝ちは確定。お前はタマを潰された『ぐらい』で戦えなくなる根性なし。俺はそんなことで戦いを止めたりはしない。潰してやる。てめぇの脆弱な自尊心ごと、握りつぶして殺してやる。
 俺はお前より強いんだ、クソったれ野郎。
 だが右足の指先が掴んでいたのは、やつの金的ではない。
 やつの右手。
 ガードされていた。
 足の指の間に相手の手の指が絡み、同時にもう片方の腕で足首を掴まれ、右脚を引き込まれる。即座に発動した俺の足癖は相手の指一本をへし折っていたが、その時点でむこうも覚悟を決めていたらしい。 
 この土壇場で、やつは俺に噛みつかれたアキレス腱を逆利用したのだ。
 噛みつかれ伸びきった片脚に、自由なもう一本の足をフックして、その間に両腕で引き込んだ俺の右脚をホールド。四の字固めに近い脚の形だが、四を描いているのは技をかける側だ。
 梃子の原理を利用したその技は、俺の右膝へ可動域とは逆方向への力を加えている。
 変形膝十字。
 普通はこんな技は成立しない。
 俺がやつの足首に噛みつき、ホールドしているから力が逃げずに膝にかかっている。
 こんな状況は、練習も想定もできない。寝技師。柔術家。やつは積み重ねた経験から、たった今、即興で技を発想したのだ。
 噛みついたアキレス腱を引っぱって体勢を崩そうとしたが、相手は動じない。片足のアキレス腱は捨てたらしい。やつは勝つための犠牲を受け入れた。
 末端部への攻撃が通じない以上、こちらは自由な右手か左脚で金的を掴みに行く以外になかったが(目の位置は遠すぎる)、どちらかを床から浮かせれば、それが支えていた分の体重が膝にかかり折られる。
 俺の選択肢は二つしかない。
 このままアキレス腱を噛み続け変形膝十字で膝関節を壊されるか、アキレス腱を離した瞬間にヒールホールドで膝靭帯をぶち切られるるか。
 俺は後者を選んだ。
 血に交じった唾液が、歯の間から落ちて行くのが見える。
 それと同時に、靭帯の切れるやけに軽い音が脚のほうから聞こえた。極められた方向に回転する暇はない。人体の構造上、筋力による抵抗が一切できない方向に力を加え極める技だ。タップする暇すらない。
 俺はタップするぐらなら死ぬが。
 やつは距離をとっていた。
 驚きと興奮、優越感の入り混じったその表情には覚えがある。極限状況の戦い、逆境の中で成長した者の顔。それは恐らく、俺が今までこの地下で負かしてきた相手が最後に見たはずの顔だった。舐めやがって。
 床に赤い血が垂れている。噛み切ることはできなかったが、歯型のついたアキレス腱、指をえぐり込んだ足先、折った指のダメージはある。アキレス腱の取り合いから始まり、両者が片足を失った形だ。
 俺は残り二、やつは残り三。
 ただし、やつの場合は機動力を削がれただけで、寝技をかける上ではアキレス腱の負傷はほとんど問題にはなならない。手の指も一本折ってやったが、あまり使えるダメージではなかった。右手の薬指だ。
 俺は笑う。キレそうで、キレそうで、逆に笑うしかなくなっている。歪んだ表情に引っ張られた縫い目が割けて破れそうになっているのが、自分でも分かる。
「俺は折ってみろって言ったよなぁ」
 耳鳴りがするほどの観客たちの熱狂は、不思議と気にはならなかった。俺は挑発の言葉を吐く。挑発せずにはいられない。計算はなかった。それは生理反応に等しい。死に瀕したとき、野生の獣は食欲なんて忘れるだろう。だが、狂犬病にかかった犬は、いつだって涎塗れだ。
 俺はきっと、狂犬病にかかっている。
「逃げてんじゃねぇって言ったろうが、デカい図体しやがって、ビビり野郎。首も含めたら残り三本だ。ヘボ柔術家が」
「お前の脳ミソ、奇跡だな。まだに勝てるつもりか?」
 市ヶ谷は笑っている。そして、獲物の様子を伺っている。その本性を再び軽薄さの下に隠す。 
「それとも、現実が受け入れられなくて、イカレたのか。いや、俺がイカレてるってことを理解してなかっただけか。悪かったな」
 市ヶ谷はそう言って中指を立ててきた。へし折ってやった薬指の隣の中指でだ。
 節穴野郎。
 俺は勝つためにここに来た。勝つための準備をしてきた。
 だから俺はマジで笑ってんだよ。腹の底から笑ってる。お前とは違う。お前はそれを分かっちゃいない。俺が勘違いさせてやったのだ。ハマりやがって、間抜け野郎が。
 タイマー見ると、四分二十秒台後半。
 俺は確信していた。
 市ヶ谷の本命は、もっとも近い六分〇秒台だ。 
 元々、早い時間帯が本命である確率は高かった。普通に考えれば、本命が失敗した場合の予備の時間帯を『本命よりも前』に設定する必要性はない。『運営』や『四天王』とのややこしい裏取引が絡んでいることも考慮したが、その可能性も消えた。
 今までの攻め方、そしてこの状況での挑発。
 会話を長引かせ、時間稼ぎをする素振りがない。つまり、すでに仕上げの時間帯に入っているということ。
 観客の一部が、五分までの三十秒カウントを始めた。
 カウントとそれ以外、半々ぐらいか。合唱に加わらない者は、市ヶ谷の嘘予告にハメられた賭けの参加者たち。マヌケどもの金はパーになる。悲鳴が上がっている。怒号が飛ぶ。五分ちょうどまでに、市ヶ谷がもう一度攻めてくる可能性は高い。客共には、表面上、本気でやっている風に見せかける必要があるから。
 それが終われば、やつは全力が出せる。
 いや、思い込みは危ないか。次の攻撃の時点で全力か。俺はやつにアキレス腱損傷という、そこそこのダメージを与えてしまっている。それはいったん距離を離れて一呼吸置くことを、自然な流れでやる十分な言い訳になる。このまま五分〇秒台を見逃して、時間調整をするのはアリだ。そしてもう一点、やつが用意しているのが『致死量ではないが動きを制限するには十分量の毒』ならば、一分程度なら寝技の膠着状態のふりをして安全に誤魔化すことは簡単だ。
 手足の全破壊と、毒の使用。ここまでのやつには、それらを制限せざるを得ない事情があった。飛車角落ちだ。ケージの中に、ケージ外の事情を持ち込むなんて、『殺し合い』に『手加減』の理由を持ち込むなんて、文字通り『死ぬほど』の馬鹿野郎。こちらにとって著しく有利なハンデ戦だった。それでもなお、腕一本分の差で俺は負けていた。それが現状。
 死にたくなるし、殺してやりたくもなる。
 あいつは今まで、俺を『殺すつもり』はなかったんだ。俺はこんなにもお前を『殺したいと思っているのに』。
 心底、ムカつく。二重の意味で俺はムカついていた。
 だが、同時に心底楽しんでもいた。俺は腹の底から笑っている。大抵の悪巧みは、計画を練っている間が一番楽しいのだ。
 こっちの企みは、まだ終わっちゃいない。目にものを見せてやる。
 俺たちは笑う。互いに脚を傷め、コンクリの床に座り込み、健闘を称えあうように笑いかける。よく頑張ったな、すげぇよお前。こんな苦戦したのは初めてだ。
 だから、もう、死んでいいぞ。
 俺たちは互いにそう思いっているはずだ。本心では。
 客どものカウントが残り二十秒を切った。市ヶ谷は床に両手を着き、片膝立ちに体勢を変える。 
 やつの『殺すつもり』が、来る。

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