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格闘衝動

作:龍宇治

第十三話『Out Of Rule(前)』

 確かに盛り上がりはしたな。
 フェンスのむこう側に仰向けに横たわる少年を見下ろしながら、その青年はそう思った。彼は地下闘技場の観客の一人に過ぎなかった。
 普段の彼なら、あまりに冷静な自分の感想に驚きもしただろう。青年は一種のショック状態にあった。これまでも地下での戦いを観戦したことは何度もあったが、観客エリアの最前列、フェンス一枚隔てた場所で『それ』を見るのは初めてだった。
 目の前で、人が殺された。
 期待をしていなかったわけではない。なんと言っても、今日戦うのはあの『四天王』なのだ。相手を殺すというパフォーマンスは、彼らが持つ絶対的な人気の理由の一つだった。子供じみたセンスのない言葉遊びではあるが、文字通り、その称号は相手の死を意味している。
 しかし、まさかその試合直後のリング上に乱入者が現れ、そいつがウィンとの戦いの末に自分のいる観客エリアの前に落ちてきて撲殺されるとは、青年は夢にも思っていなかった。
 飛び散った血がジーンズや靴に付着するほどの至近距離。まさに特等席だ。
 殺されたのは少し前に話題になった中学生ファイターだった。ほんの数十分前、青年は彼と会話をしていた。青年はこの地下の入り口にある券売所の受付だった。
「あれくらいで死んでたまるかよ」
 券売所で声をかけたとき、少年がそう言っていたのを思い出して、青年は思わず笑ってしまっていた。笑うしかなかった、と言ったほうがいいか。一人の人間が目前で死ぬという事実は、彼にとって処理しきれる出来事ではなかった。だが同時に、足元から三十センチにも満たない位置にある原型を留めていない少年の顔が、その事実を容赦なく彼に突き付けている。血まみれの上からでも、顔面の個々のパーツの配置と形状に著しい異常があるということは明らかだった。
 そもそも、彼は好き好んで地下にやって来たわけではない。
 大学を中退して地元をぶらぶらしていたとき、たまたま高校時代の先輩に再会したのが始まりだった。その先輩はヤクザの舎弟だった。そんな相手から紹介される仕事は、もちろん非合法。軽い気持ちで始めたが、気が付いたときには抜け出せなくなっていた。この地下闘技場のスタッフになったのは、周囲に流されるまま生きてきた結果だ。
 それでもなお、青年は今まで己の現状を悲観したことはなかった。並外れてポジティブだとか、精神的に打たれ強いというわけではない。むしろ、その逆だ。彼は自らの殻にこもることで、無意識に現実を直視することを避けていた。ある種の才能と言ってもいい。犯罪集団の構成員であることも、目と鼻の先で日常的に殺人が行われていることも、事態の深刻さを意識することさえなければ日常と同じになる。
 ただし、それは薄い自意識の殻に守られた偽りの平穏に過ぎない。『リアルな殺人』を間近で目撃したことは、その殻を粉々に砕くには十分過ぎた。
 しばらく呆けたように少年の崩れた顔を眺めていると、青年は自分の脚が震えていることに気が付く。
 もしかして、俺ってとんでもないところにいるんじゃないのか。
 後戻りできない場所まで来てしまったんじゃないのか。
 青年は急に怖くなった。周りを見ると、『四天王』の戦いを最前列で観ようと自分を誘った闘技場のスタッフ仲間たちが、起き上がったウィンと二人目の乱入者にむかって目を血走らせながら「殺せ」という野次を飛ばしていた。つい先ほどまで、非合法な職場にしては気のいいやつらだと思っていた同僚たちの姿は、青年には人間ではないように見えた。
 他人の死を楽しんでいる。
 死ぬんだぞ。本当に死ぬ。
 いや、すでに一人、死んだ。
 青年は再び少年の顔に目を落とした。
 頭の方向が変わっていた。目を離す直前は天井を向いていたが、今はウィンともう一人の乱入者の方向を見ている。青年は死後硬直だとか、そういう自然現象のせいだと思った。そんな状態の人間が生きているとは思いたくなかったからだ。
 次の瞬間、死んだはずの人間の片腕がフェンスを掴んでいた。
「ひいっ」
 思わず青年は声を上げた。同時に、腰が抜けその場に尻もちをつく。小学五年生のとき以来、十数年ぶりの失禁をしたことを自覚する余裕はなかった。
 実のところ、その少年は確かにそのとき死んでいた。数秒間、心臓が停止していたのだ。それがどういうわけか自力で蘇生した。その事実を認識していた人間は、少年本人を含めて誰もいない。『奇跡』としか言いようがない現象だったが、それよりも『少年が死を拒絶した』という説明のほうがしっくり来るのは、恐らく気のせいではないだろう。  
 フェンスにしがみつきながら上体を起こした少年と、青年は目があった。そのとき、青年は自分の死を覚悟していた。蛇に睨まれた蛙というやつだ。
「おひ、あんぼうあっえう」
 口内で割けた舌のせいで少年の発音は不明瞭だったが、青年はその意図を正確にくみ取っていた。正しく答えられなければ死ぬ、と判断した脳が普段使っていない潜在能力を覚醒させたのかもしれない。
 何秒間、自分はウィンに殴り続けられたのか、ということを少年は質問していた。
「かっ、数えたわけじゃないけど、十秒ちょっとぐらいだ。二十秒は絶対経ってなかった」 
 その答えを聞いた少年がぐちゃぐちゃになった顔で笑ったのは、青年から見ても確かに分かった。
 三十秒ルール。ここに来て、少年はまだそれに拘っていた。死ぬかどうかという、いや、一度死ぬほどのダメージを受けてなお、まず気にすることが自分が負けていないかどうかだった。
 十秒ちょっとで一度気絶しただけだから、三十秒が経つ前に目が覚めて、その後反撃ができたことになる。やっぱり俺は勝ってたな。
 その少年は、マジでそんなことを考えていた。出鱈目な理屈で己を納得させるという点では、殻にこもって現実から逃げてきた青年と通じる部分があるのかもしれない。
 とはいえ、そのような相手の心情を読み取ることは青年にはできなかったし、たとえ読み取れたとしても、口から出てくる言葉は変わらなかっただろう。
「……いかれてる」
 そう呟いたと同時に、目の前の少年は跳ねるように立ち上がっていた。口が滑った、と思った。青年にとって、人生で最も後悔した瞬間でもある。
「ごっ、ごっ、ごめっ」 
 恐怖から来る吃音が、命乞いの邪魔をした。再び青年は死を覚悟した。脳裏には今までの人生、そして両親の顔が浮かぶ。    
 その瞬間、崩れた顔の獣が吠えた。
 

 
 およそ三十秒前。 
 残り一発。
 残り一発、渾身の打撃をブチ込めばこのガキの顔面の骨は陥没する。ウィンが後頭部に衝撃を感じたのは、それを確信をした瞬間だった。
 威力からして、喰らったのは蹴り。
 完全な油断だ。リング横スペースの床に投げ出されたとき、ウィンは己を戒めた。ケージ内での戦いに慣れ過ぎた弊害。平和ボケしてやがる。そのようなウィンの感覚もまた、常人には理解不能な域に達していたと言っていいだろう。契約で定められた年十回の殺し合いも、彼にとっては平和の延長ということになるのだから。
 とは言え、ウィンに油断があったことは確かだった。生まれつき痛覚がない彼にとって、死角からの致命傷を狙った不意打ちはもっとも警戒すべき攻撃だった。
 蹴られたのは首の後ろ。人体急所の一つである頸椎。運動、感覚、そして生命維持を司る神経が集中し、大きなダメージを負えば最悪即死する可能性もある部位だ。
 前のめりに地面に倒れたウィンは、即座に飛び起き、自分のダメージを確認した。手足の運動機能に目立った支障はない。首を触ると出血しているのが分かった。裂傷ではなく、もっと深い傷だった。幸い、分厚い筋繊維を割いただけでその下の神経には届いていない。
 第二の乱入者の姿を確認したとき、ウィンはその狙いの大方を理解した。
 その男の名は、市ヶ谷。
 面識こそないが、ウィンがかねてから興味を持っていた相手でもある。
 身長百九十六センチの恵まれた肉体と、元自衛隊員という異色の経歴を持つファイター。そのプロフィールだけでも話題になる上に、実力も折り紙付き。今では『下』の注目株の筆頭で、『四天王』との対戦が待望する空気があった。だが、ウィンが個人的に注目していた理由は別にある。
 市ヶ谷には、対戦相手を闇討ちするという噂があった。
 明確な証拠はないが、ウィンはその噂を事実だと判断し、またその行為を肯定もしていた。尻尾を掴ませないというのは、優れていることの証明に他ならない。ケージ内外を問わず、喰い物されるほうが悪いのだ。それがウィンの理屈だった。
 だからこそ、ウィンは己が不意打ちを喰らったことに対して激しい自噴を感じていた。
 警戒はしていたが、一人のときを襲われるという先入観があった。だからこそ衆人環視の中、別の乱入者に乗じて襲うという市ヶ谷の機転は完璧にハマっていた。突いたのは、ケージの内と外、その境界に起こる意識の隙だ。
 己の頭の回らなさが招いたダメージ。加えて、市ヶ谷は殺そうと思えば殺すこともできた。あえて生かされたのだ。それがウィンには許せなかった。
 この局面、市ヶ谷の目的は『四天王』を倒したという事実。
 ギャラリーの目がある中、背後からの卑怯な一撃で倒すのでは話に箔が付かない。ある程度、対等な条件に『見える』演出が必要だった。そのため市ヶ谷は自分が有利になるようなダメージを狙いはしても、殺さないよう手加減せざるを得なかった。『四天王』という地下で築いた地位がウィン自身を守ったとも言えるが、本人はそうは思っていない。
「ウィンさんよぉ、話が違うぜ」
 市ヶ谷がそう言った。ウィンは日本語を話せないが、意味を理解することはできる。相手が次にどういう理屈を並べるかも、予想はできていた。
「お前と闘るには、手順を踏んで挑戦者決定戦に勝たなきゃいけないはずだろ。そこで死んでるガキには権利はねぇ。なのにお前は戦った。それが何を意味するか、分かっているよなぁ」
 俺にも挑戦権がある。今、この場で。市ヶ谷の言葉はそういう意味だった。
 知恵の回るやつだ、とウィンは思った。さっきのガキがグルでないとしたら、この男はかなり『持っている』。運だけではない、それを活かす能力を備えている。
 例えば、市ヶ谷が口に咥えている火のついたタバコ。一見余裕の表れのようにも見えるが、至近距離でなら目を狙って飛ばし隙を作ることができる武器になる。先ほどの蹴りにしても、傷口からして靴底に刃物を仕込むなどの細工があったのは間違いはなかった。市ヶ谷がさらに武器を隠し持っているのは確実だ。
 さらにウィンは武器を封じられていた。
 幅約一メートルのステージ横の隙間では、回し蹴りが打ちにくい。打てたとしても、あらかじめ通路の片側に身体を寄せなければならないので、相手には左右どちらの蹴りかは完全に分かってしまう。もう一点、ウィンは得意の首相撲を安易に使えないとも考えていた。それは市ヶ谷が使うある格闘技に関係していた。加えて、ダメージの有無と体格差もある。
 あらゆる点で圧倒的不利なこの状況で、ウィンはやはり牙を剥きだしにして笑顔を浮かべた。俺の目に狂いはなかった。こいつは面白い。さっきの蹴りで俺を殺さなかったことを、必ず後悔させて見せる。
 『四天王』が手招きをして挑戦者に応えると、フェンス越しの観客たちが沸いた。
 場外試合の成立。その瞬間に市ヶ谷もまた笑ったが、それはウィンの戦闘者としての歓喜の笑みとは別種だった。獲物を追い詰めた捕食者の笑み。あらゆる要素が己に味方をし、かつそれら全てをコントロールできているという確信が市ヶ谷にはあった。
 ただ一つの誤算は、その場に居合わせたより若く凶暴なもう一匹の手負いの獣の存在だった。
 死の淵から蘇った、少年の咆哮。
 それに反応したのはウィンだけだった。少年に背を向けた市ヶ谷の耳にもその声は届いていたが、獲物であるウィンから目を離し迂闊に振り向くことはできない。
 立てるはずがない。ウィンですらそう思うほどの重傷を負った少年は、唸り声を上げた後に手招きをする。
 後ろを見ていない市ヶ谷ではなく、ウィンに対する手招きだった。その意味は挑発ではない。一緒に邪魔者を殺るぞ、というサインだ。
 市ヶ谷は二人の中間地点に挟まれている。
 状況は一変していた。
 己一人の力で現状を打破するということに関して、ウィンに拘りはなかった。それは市ヶ谷の闇討ちを肯定したのと同じ理由。生き汚さは、ウィンにとって美徳だった。
 こんな小僧がこの修羅場を生き残り、再び俺に挑んでくるというのなら、それもいい。あるいは、市ヶ谷もこんなところでで終わるようなタマとは思えない。
 どちらに転ぶにしても、俺は楽しめる。
 なら、迷う必要はない。
 少年が再び声を上げ、市ヶ谷に向け走り出したとき、ウィンもそれに合わせて地を蹴っていた。
 


 
 完全なる誤算だった。
 いや、計算に入れろというほうが無理だ。これは回避不能の事故に過ぎない。あのガキが動けることは、人知を超えた『奇跡』によるもの。 
 自分が挟み撃ちにされたことを理解した瞬間、市ヶ谷は即座に思考を切り替えていた。
 今の問題は、どちらを先に始末するかだ。
 前門の虎か、後門の狼か。
 隠し持っていた小振りのバタフライナイフを抜くことに躊躇はいらなかった。どちらを殺るにしても、時間は最短でなくてはならない。こいつらのタフさは異常だ。
 同時に市ヶ谷はある違和感に気が付く。俺はウィンから目を離すことができなかったんだ。このガキ、俺を倒すつもりなら黙って背後から襲えばいいだろ。つまり、背後からでも俺に決定的なダメージを与える余力が残っていなかった。やはりこいつは死にかけだ。
 その答えに辿りつくまでの経過時間は、およそ〇・五秒。
 二人との距離は、それぞれ残り二メートルほど。逃げることはできないが、作戦を経てる猶予はあった。
 初めにガキを殺す。
 そう決断した市ヶ谷はナイフを抜いた右腕を少年のほうへ、左腕をウィンのほうへと向けた。
 刃物を向けられたことに対する躊躇は少年に見られない。同時に攻撃しなければ挟み撃ちの意味がないということをよく理解した動きだった。もちろん、市ヶ谷にも焦りはない。
 二匹の獣が、後一歩でそれぞれの間合いに敵を捉えるという距離で、市ヶ谷はウィンのほうへと半歩踏み込む。
 それに合わせ、口に咥えたタバコが飛んだ。狙いはウィンの片眼。一方をひるませ、もう一方をその隙で殺すというのが市ヶ谷の作戦だった。
 ウィンは最小限の動きでそれを避けた。タイムラグはない。この攻撃は読まれている。
 タバコの攻撃が失敗したと理解したときには、既にウィンの片腕が市ヶ谷の後ろ首にかかっていた。通常なら首相撲は市ヶ谷にとって対処可能な技だったが、二対一の状況ではその技術は封じられている。さらに、ウィンのもう一方の腕が市ヶ谷への目突きを狙った。
 予想通りだ。
 ウィンが組みついてくるのは当然の想定だった。ダメージに差があるからこそ、一気に決める技を選ぶ。殺し合いの鉄則ではあるが、それ故に短絡的だ。
 あんたは確かに強いが、獣では人には勝てない。
 ナイフが少年のほうへ向き、タバコが避けられた今、ウィンは無警戒に間合いをつめた。二つの武器は、あえて見せることによって意識を誘導するための布石。市ヶ谷は罠を三重に張っていた。
 本命は左手にはめていたグローブ。
 ウィンの胸板に触れたそれには、高電圧の改造スタンガンが仕込まれている。タバコが当たろうが外れようが、それを使う予定に狂いはなかった。 
 弾けるような音がした。
 電流は接触した物体の最短距離を流れるため、市ヶ谷の首にかかっているウィンの腕からの感電はない。目突きは額で受けガード成功。そのままウィンの胴を押し突き飛ばすと、市ヶ谷はもう一匹の獲物の方へと向き直った。
 ウィンはすぐに復活する。このガキは即座に殺さなければならない。
 ナイフとスタンガンの二択。相手がどちらを優先的に防御しても瞬時に決める技術を市ヶ谷は持っていた。
 だが少年もまた、無策ではなかった。
 口内に溜まった血液を一気に噴き出す、いわゆる毒霧。
 この状況、この重傷での機転。生意気なガキ。毒づいたが、市ヶ谷に精神的動揺はない。左目には血が入ったが、右目は無事だ。拭っている暇はなかった。
 少年が死角となった市ヶ谷の左手首を掴んでいた。優先したのは、スタンガンへの防御。市ヶ谷にとってはより厄介な選択肢だったが、依然想定内。
 ある種の習慣的動作と化したナイフによる刺突が、少年の首を狙っていた。
 その一閃を、少年は掌で受け止める。
 刃の先端は手の甲を貫いていた。その状態で、少年はナイフの柄を握っていた市ヶ谷の右手を上から掴む。その防御方法は、傷を負わないということを度外視すれば正しい。市ヶ谷の持つバタフライナイフは小振りだが両刃であり、ナイフを持つ腕を払おうとしても瞬時に手首を反され、防御した側の腕を切られる。
 切れ味を持つ、ということは打撃に比べ小さなモーションで致命的な傷を与えられるということ。動きの落差に即座に対応することはできないと判断し、少年は刃そのものを止めることを選んだ。
 問題は、ナイフを受け止めた左手に負ったダメージ。
 親指が折れていた。対等な条件でウィンに挑むためにつけた矜持の自傷だ。それが裏目に出ていた。残りの四指だけでは、相手の手を掴み続けることができない。市ヶ谷はそれを見逃さなかった。
 両腕を広げ組み合った状態なら、有効なのは頭突き。加えて、少年は顔面に重傷を負っている。ひるませると同時にナイフを抜き、掴まれた左手首も外す。どちらか片腕が自由になれば、あとは簡単だ。首相撲の要領で密着すれば、スタンガンとナイフ両方が有効になる。
 だが、その頭突きは予備動作の段階で中段された。
 少年に活路をもたらしたのは、この半年間で学んだ現代打撃の基本。すなわち上下の打ち分け。
 少年の回し蹴りが市ヶ谷の左脇に入っていた。
 腰から上の、武器の制し合いに意識があったからこそ活きた死角からの一撃。クリーンヒットしたその威力は、アバラ数本を刈り取る。
 市ヶ谷の動きが一瞬止った。今度は、少年がその隙を活かす番だ。
 親指の使えない左腕だけでは刃を止められないことは分かっていた。前歯は数本折れたが、ところどころ割け目の入った舌で奥歯の存在は確認済み。左手を貫通したナイフの先を、少年はさらに口に加えた。そのまま頬を貫通した刃は、奥歯にがっちりとクラッチされる。
 市ヶ谷にナイフに噛みついた狂犬を振り払う暇はなかった。時間切れだ。
 ナイフの柄を話すと同時に、市ヶ谷は身体を丸め、自由な右腕で後頭部を守った。
 同時に、復活したウィンの蹴りが上体を穿つ。
 その反動で市ヶ谷は逆方向にあるリングの土台のコンクリに叩きつけられた。勢いで少年に掴まれていた手首も外れていたが、喜べる状況とは言えない。
 武器を失った上に、背後からの攻撃を喰らい反撃ができる体勢が整っていない。ウィンの本領はここからだ。密着した間合いで、連続してダメージを与えフィニッシュまで行く。存在が知られた左腕のスタンガンが通用する可能性も極薄だった。
 ここまでか、と市ヶ谷は思った。
 ウィンの膝蹴りに胴を打たれ、両腕で頭を抱えるようにして、市ヶ谷はその場にうずくまる。もちろん『四天王』は相手が戦意を失ったからと言って容赦をする人格者ではない。
 三十秒、しっかりやる。 
 ウィンは市ヶ谷の背中を膝で抑え、腕を振り上げた。市ヶ谷の懐から何かが落ち、地面を転がったのはそのときだった。ウィンにとっては見慣れないその筒状の物体は、市ヶ谷の自作したある非致死性兵器。
 俗に、スタングレネードと呼ばれる代物だった。
 爆音と閃光が周囲を包んだ。

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