ムフフ絵願望浴
作:ディープ素人
※本作は新都社掲載中の、ジョン藤木先生『神社のお兄さん』の二次創作です。
「後日談およびエ□マンガ描いていい?」という@ツイートに快く許可を出してくださいました。出すな。
原作未読でもさほど問題なく読めると思いますが、原作の雰囲気を壊したくないという方はブラウザバック推奨です。
「後日談およびエ□マンガ描いていい?」という@ツイートに快く許可を出してくださいました。
原作未読でもさほど問題なく読めると思いますが、原作の雰囲気を壊したくないという方はブラウザバック推奨です。
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謝辞
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。初めてひとつの作品を、マンガとして描き切ることができました。
マルチポストに触れない程度に(重要)、ページの一部分をXにポストしておりましたが、
そこに「いいね」をつけてくださった方のおかげでモチベーションを保つことができ、
また、何よりジョン藤木先生のご理解のおかげで、作品として仕上げ、公開することができました。
描いたページ順、キャラデザやペンの太さまで滅茶苦茶で、読みにくい箇所もあったと思います。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
怪文書
『神社のお兄さん』について
ご存知の通り、ジョン藤木氏による作品である。恥ずかしくなるほどまじめな少女漫画とご自身で振り返っているが、
10ページとは思えないほどの爽快感を味わえる作品である。
私は、藤木氏が「マンガ描くぞ」みたいなポストをする度に
「神社のお兄さん続編!?」みたいなクソリプをするほどであり、
藤木作品の中でもナンバーワンといえるほど好きである。
好き過ぎるあまり、2022年の3月に退職した後、たまたまタウンワークで
神主見習いの募集を見かけて応募した。
当然のように落ちたし、学校教員の生活がそのまま1時間前倒しになったようなハードさだったので、落ちてよかった。
エ□マンガについて
ご存知のお方もござりましょうが、私はこれまで二次創作オリジナル問わずエ□作品を描いてみたが、どれも完成していない。
この作品に取りかかるために、オリジナル作品の男女を全裸で放置しているほどである。
そんな私が描き切ったことだけでもこの作品は特別なのだが、実はそれ以外にも、この作品は特別を持っている。
性器の表現だ。
他の作品を見ていただくとわかるが、私はこれまで乳首は描いても性器は描かなかった。
構造理解が面倒くさいのと、修正が面倒くさかったからである。
しかし本作に際して、いわゆる白塗り修正的な形で性器を描いた。
実際には描いてない。白の投げ縄塗りで輪郭を取っただけである。
しかしこれがまあ、途端にセクシャルな印象を抱かせる。
つまり「なんか見てはいけないもの」の感じがして、我ながら見栄えに感動した。
白塗りなので構造理解は輪郭だけでいいし、最初から白いので修正する必要がない。
ちなみに、「白塗り修正と言うものをやっている」みたいなポストをしたら、パンくん先生からいいねが来た。
記憶が正しければ、パンくん先生からのいいねはこれが最初で最後である。
ちょうど先生が同人を出されたあたりだったので、もしかするとちょうど何かしらの修正作業中だったのかもしれない。
本作全体について
繰り返すように、藤木氏に「エ□マンガ描いていい?」と許可を得た。しかしながら、ここまでお読みいただいたようにエ□シーンが少ない。
もしそれを求めていた御仁がいたら、申し訳ない。
理由はシンプルで「描いているうちに興が削がれた」ようなものである。
やる気がなくなったわけではない。
導入的な部分を描くうち、矢野やせいちゃんに対しての気持ちが強くなり、スケベ心が死んだのだ。
実は扉絵的なものを一番最初に描いているので、そのときが一番スケベボルテージが高かった。
脳内で構想を練っているときに肝になっていたのは
「試してみますか?」のシーン、「交換しましょう」のシーンである。
要するに、せいちゃんの大ゴマ。
つまり、最初の構想ではあくまで「せいちゃんの物語」だった。
インスピを得た作品の話
さて、新都社には『雪ちゃんは大人っぽい』という作品がある。こちらはいわゆるロリ作品だが、エノキ先生がその後日談、あるいはリメイク的な作品を商業で描かれている。
法事の時にしか地元に帰って来ない男が、巨乳眼鏡っ娘に成長した女子高生の姪とホニャララする作品である。
年イチの逢瀬、的な話。本作がいかに影響を受けているかおわかりいただけるだろうか。
とはいえ、『雪ちゃん』および商業版は、年イチを楽しみにしている性欲旺盛な姪が叔父を誘惑するというものであり、
支部のサンプルでしか見ていないが、おそらくはその次の年も同じようなことが起きるものであろう。
さて、話は別作品。こちらも商業であるが、藤丸先生の『花』という作品集の「これからの君に」。
中学のときに付き合っていたが疎遠になってしまったふたりが同窓会で再会。
お互いに別の相手と既婚・婚約状態であったが、本当の幸せを押し殺している状況。
時を経てお互いの気持ちを通じ合ったふたりは、ふたりで幸せになることを選ぶ。
という、成人向け作品である。
ヒロインは眼鏡っ娘。そしてどういうわけか主人公の男の名前は「矢野」。
なんという偶然。
長々と話をしたが、キャラデザやアングル、コマ割り等で大きく参考にしたこれらは
「肉欲に沼る話」か「ふたりが幸せになる話」である。
せいちゃんの話
さて、話をこっちに戻す。何の前フリだったかというと、要するに本作で「ふたりをどうするか」という話である。
そのためには結局「矢野をどうするか」が重要になる。
せいちゃんはさておき、本家『神社のお兄さん』で矢野には結婚予定の相手がいた。
つまり、そこをどうにかしない限り、矢野とせいちゃんが結ばれることはないのである。
そして、正直どうにかしてしまおうと考えていたところもある。
ふたりで幸せになるためには、どう考えても「相手」が邪魔だからだ。
あるいは『雪ちゃん』のように、背徳・ザ・エッチ・セッ○クスに振り切ってもよかった。
というか、先述のように、どちらかというと最初は「エ□が描きてぇ!」だったので、背徳の方向で行く予定だった節がある。
「試してみますか?」はその典形だ。
そして、思い留まる。
繰り返すように、『神社のお兄さん』は作者が恥ずかしくなる真面目な少女漫画であり、
その魅力のひとつは「切なさ」である。
恋が始まる土壌がそもそも育っていない中での、1日限りの片想いである。
「切なさ」が特徴の作品の、二次創作を名乗るのならば。
方向性も、原作をリスペクトするべきではないか。
そうなると、物語の方向性、およびせいちゃんの目的は、
「切ない片恋にカタをつけること」であり、「成就」ではない。
と同時に、少しは下心というか、矢野と一緒になる方向も願っている。
ここで思い出す。原作でのおみくじのシーンを。
これだ、と思った。
せいちゃんの目的は「お返し」にするべきだ。
そしてそこに魔性、もとい「本心」を少々。
おかげで「ここに帰る度~」のページは全ページのいちばんのお気に入り。
そしていちばん気合の入ったページのひとつになった。
「これからずっと」ではなく、「帰ってくる度」くらいのささやかな、ふじだらな願い。
なのでせいちゃんは、最初から「カタをつける」ために矢野と一緒にいて、笑っていたのである。
そう考えると、我ながら感慨深いものがある。
矢野の話
せいちゃんとは対照的に、最初にある程度ポジションが決まっていたのが矢野である。こいつにはとりあえず、流されてもらえばそれでよかった。
だが途中で異変が起こる。
描いているうちに、矢野へのシンパシーが高まり、私は矢野の「目」が描けなくなった。
目が見れない、という感覚である。
劇中でおやっさんが言っているように、どう転んでも矢野は「悪い奴」になる。
だが、矢野は悪い奴ではない。というか、悪い奴になってはいけない。
矢野なりに責任を取ろうとしている、という方向で……。
実は、7ページから10ページは後から足したものである。
おわかりの通り、9ページが描きたかった。
先述の「せいちゃんは最初から……」を踏まえると中々に残酷である。
とはいえ、このときばかりは本心で笑っていてほしいし、そういうことにする。
つまり何を表現したかったかというと、
矢野は責任感だけでなく、きちんとせいちゃんとの日々を楽しんでいた、ということである。
42ページも、後から足したものである。
ここがなかったときは、あまりにも矢野があっさりしすぎていた。
離婚という手続きは踏んでいないながらも、矢野はそれを視野に入れていた。
踏んでいないどころか話もしていないので「クソ野郎」は逃れられないのだが。
仮に自分が「種なし」だった場合、将来的にせいちゃんが痛い目に遭うということも考慮していない「クソ野郎」である。
それは別としても、ともかく「せいちゃんがカタをつける」だけでなく
ある意味で「矢野がしっかりフラれる」話でもある必要があった。
そして矢野の、ある意味諦めの決心でもあり捨て台詞でもある46ページ。
最初は「またね」とか、そんな感じのセリフだった。
しかし、フラれた矢野の、つもりはなくともカウンター的な爪跡を残すものとして、このセリフになった。
などなど、様々な補正もあって、個人的には矢野は幾分か「クソ野郎」ではなくなった気がする。
あくまでも作者目線なので、傍から見るとそうでもないかもしれない。
それに、せいちゃんとの秘密は周囲の協力もあってのことなので、結局「肩身の狭さ」は変わらない。
もしかすると、矢野はこのあと一切、この街に帰ってこないかもしれない。
というか。
もし子どもができて、せいちゃんにもだっこさせたとしたらこんなに残酷なことはないだろうと思う。
余談だが、『神社のお兄さん』のFAを描いたときよりも、矢野のデザインは私の手癖と性癖が反映されている。おやっさんや姉ちゃん、その他モブおじの話
この人たちの理解がなければ、せいちゃんがカタをつけることはなかった。と同時に、矢野が「クソ野郎」になることを押し進めた人たちでもある。
もちろん目的は、単に矢野を貶めることではなく
「矢野を犠牲にしてでもせいちゃんの呪いを解く」ことであった。
エ□マンガスタートから途中で舵を切ったので、行為の最中におやっさんや姉ちゃんのページを挟むことにした。
行為のシーンが描けないので、時間経過を他の人物に委ねたわけである。
つまり都合上描かないといけない人だったわけだが、
だんだんとこのふたりを描くのが楽しくなってくる
という謎の現象が起きた。特におやっさんは普段あまり描かなかったタイプの年齢なので、刺激的だった。
ただ、妙に「おやっさんと姉ちゃんがいいカンジ」に見える現象が起きてしまい、危うく脱線するところだった。
おそらく、おやっさんを男前に描きすぎたのが原因である。
まあ声に出すとそれぞれちょっと違うので、そういうことにした。
なんなら矢野からの呼び方も「おやっさん」だったり「じーさん」だったりで、計画性のなさが垣間見える。
せいちゃんが覚悟を決めるため、本当はモブおじには
「矢野くんには男としての自信が必要だな」
みたいなことを言ってもらう予定だったが、だいぶオブラートな感じになった。
マンガが描ける人はスゴい。
扉絵を描いたのが2023年10月末。
11月は謎の鼻炎および体調不良に悩み、絵が描けないコンディションにブチギレて
自分の絵をiCloudから消去する
という暴挙に出たが、どうにか持ち直した。まだ言えないが、12月は「とある作品」を進めたり、某バンドのクリスマスソングにイラストを提供するなど、本作から少し離れることもあった。
そして仕上げの1月。
先述のように途中でシーンを足したくなり、想定よりもページがかさんだ。
つまり何かというと。
商業、同人、新都社に限らず、改めて「マンガを描く」ことの大変さに気づいたのである。
参考資料の成人向けマンガを見ていると、20ページでも多い印象で、マンガとしての構成力の低さ、もとい画力・表現力の低さを痛感したところである。
これも重複になるが、私にとっては本作が「初めて描き切った作品」である。
Xのスペース上で某氏に「最近ポルノグラフィティのジョバイロ聴いて手……」という話をしたことがある。
某氏は「ジョバイロは
また、別の方からは、直接的なエロではなく雰囲気で魅せてくる作風として吉田基已先生を紹介された。
つまり、何かというと。
他の方からの指摘で改めて「自分の描こうとしているもの」を自覚し、
本作で初めてそのひとつを完成させたのである。
もちろん、突発的にドスケベなものを描きたくなることもあろうが、そのときは性欲に操られたということで。
『ムフフ絵願望浴』はじめ、今後も何か作品をゆっくり描いていくかもしれないが、本作はその指針となったと言っていい。
改めて、元ネタであるジョン藤木氏、そして
およそ6000字という正気の沙汰じゃないあとがき
にお付き合いいただいた読者様に、感謝の気持を伝えたいと思います。ありがとうございました。
また、どこか別の作品で。アリーヴェ・デルチ。



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